「信じていますよ」は、疑っていると同じことです。
「あなた、信じていますよ!」と強く言われたらどう思いますか?
裏を返した表現を取りますと、「あなたを疑っているので、今以上に私の期待を裏切ることはしないでくださいね」という呼びかけになりませんでしょうか。
信じるって何でしょうか。不思議な言葉です。
普段私たちは「信じる」と言葉にして使う機会は少なく、「信じている」のかどうかを考えて行動することもあまりないのでは?と思います。
天気が晴れの時、外に出て空を仰ぎ見たならば、晴れかどうかを信じる信じないは問題となりません。現に今、空は晴れているからです。疑いようがありません。
本当に信じるという出来事は、私に少しも疑いを持たせない在り方で現れて、しかも大きな安心となっていることを「信じる」というのではないでしょうか。
浄土真宗において信心とは「まことの心」と読みます。
仏(阿弥陀如来)さまのまことを「信」といいます。
私たちの中に本当のものを作り上げて信心するではありません。私が「信じる」のでは救われないのです。「私が」と付けば、私のエゴと同じです。
私たちが「信じている」というのは疑っているのと同じです。私の心はコロコロ変わり頼りとなりません。
本当に信じているのだったら、相手(対象)が私の思っていることと違っても腹を立てて残念がってはなりません。
あらゆる生きとし生けるものをすべてそのまま救うと起こった真実、「生きとし生けるものをそのまま救い取って仏と成らせる」という「この上ない仏さまのまこと」を、私たちのいのちの依りどころとする在り方を信心と言います。
私たちが救われるのは、仏さまの信があるからです。
私たちの心の中を私の修行によって清らかにしたり、私が戒律を守ってすべてきちっと律した生活を送って救われていくのは、成就が難しく時間もかかり、私が今生を終えていくまでに間に合わないのです。
多くの事にとらわれて、自分さえ良かったら満足だという在り方から中々抜け出せない私においては、「そのままのあなたをそのまま今すでに救い取った、あなたの生老病死を引き受けた」という仏さまの真実によって救われていくのです。
その真実、まことを信心と言います。
お寺の法座や法要にお参りをお勧めするのは、仏さまの大きなお慈悲の信が私のいのちに入ってくるからです。
仏さまが私を信じています。
迷いを出て私が仏に成ることを他のすべてが疑っても、仏さまが信じています。
だから私は救われます。
それを「信」といいます。
合掌
顕証寺住職