寺報・コラム

出家と家出? 浄土真宗の僧侶の立場

顕証寺寺報 第74号(令和8年7月)掲載

文字にすると似ていると思いませんか? しかし、実際は全く違います。
家を出る家出。誰しもが一度は考えたことがあるはずです。
「こんな家、出て行ってやろうか!」
切ないことです。
その家出を考える場合、別のところで生きていくことを考えます。少なからずお金やカード、当面の生活において必要なものを持って出ます。
しかし、出家はそれとは異なります。今まで頼りとしてきたものをすべて捨てていくのです。
地位や名誉、財産、家族、衣服。この世で生まれてから培ってきたものすべてを捨てて、自分の在り方を問題として、覚りを目指す生き方をするのです。
お釈迦さまの時代、出家者の私物は三つの衣(御袈裟)と托鉢用の鉢だけでした。就寝用の衣と修行の時の衣、王族などに会う場合の正装用の衣の三つ、それと鉢が一つ。
鉢というのは、出家者は自分で経済的な生計を立てないので、食事を恵んでもらう必要があります。自給自足をしないのです。生業を持たずに修行に専念します。
ですので、恵んでもらう食事も、調理されたものを午前中に一回だけです。
出家者の求めるものは、生と死を超えていくもの、つまり迷いという執われを離れたいのちの真実(本当の在り方)のみです。
よって、人間の価値観で仕上がった世俗のものは何一つ求めず、修行をするのです。
本願寺第八代宗主・蓮如上人のお手紙である御文『御文章(ごぶんしょう)』の中に、「出家発心(しゅっけほっしん)の章」があります。その冒頭に、

「あながちに出家発心のかたちを本とせず 捨家棄欲(しゃけきよく)のすがたを標せず」

本願寺出版社『御文章 ひらがな版』14頁

と示されます。
浄土真宗のみ教えとしては、ことさらに家や社会の欲を捨てて修行することが大事とは考えていないというのです。
浄土真宗の僧侶は、お念仏を頂かれた親鸞聖人にならい、「非僧非俗(ひそうひぞく/僧ではなく、俗でもない)」と言われます。
出家した僧侶でなく、世俗を糧とする人でもないのです。
それは、生活の生業を行う在家の御門徒とともに暮らし、肉食妻帯をして、世俗の人と同じ生活をお念仏する中に行うのです。
しかし、全く御門徒と同じではありません。非俗は、俗ではない出家を意味する部分もありますので、基本的には自給自足を行わない在り方です。
お布施や御懇念をお寺にお預かりして、そこから給料をいただいて生活をしています。
浄土真宗の僧侶は、親鸞聖人がお示しくださったお念仏のみ教えを伝える使命(師命)をおっています。
お念仏のみ教えを自分自身もいただき、それをひろめ伝えるために、粉骨砕身の努力をします。
それは、僧侶の生活を成り立たせるための対価を得ていく方法(収入)にはならず、自給自足をしていくための世間の職業ではありません。
み教えをひろめ伝えること(仏法を施す法施)を行って、お布施をおあずかりするのです。
出家をして自給自足をしないで真実を求めていく在り方と、通じるところがあります。なので非俗です。
また、非僧でもあるので、出家ではなく、御門徒と同じ世俗の事柄を捨てずに生活をするのです。
僧であっても俗であっても、阿弥陀さまの願いをいただき、お念仏をお称えして、お浄土に生まれ仏と成るのです。
阿弥陀さまのお救いには、僧や俗の区別はありません。だから非僧なのです。
(国に認められた僧侶として活動を行って救われていくことに「非ず」という意味もあります)
僧であっても僧でなくても、皆共々に阿弥陀さまに救われていくのです。

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