寺報・コラム

お仏事を追善供養と思っていませんか?

お仏壇やお墓、あるいはお寺の本堂にお花やお香をお供えし、お蝋燭を点け、お仏事を行うことは追善供養ではありません。

おそらく浄土真宗をよく知らない方は、御仏前にてお経をあげたりお念仏をお称えすることを追善供養と思っておられるのではないでしょうか。

追善の「追」とは、理想や目的に到達できるように仕向ける(追いかける)という意味で、追加していくことを示します。追善の「善」とは、善い事柄であり功徳のことをいいます。つまり「追善」は功徳を追加していくという意味になります。

追善供養の「供養」も一般には意味を取り違えられているように思います。亡くなった方に供え物をして冥福を祈るような意味は本来ありません。「供養」の元の言葉はサンスクリット語で「プージャナー」「プージャー」といい、お敬いをして讃えていくことを意味します。

御仏前でお経をあげることを一般にイメージとして思っておられるような追善供養として解釈すると、亡くなった方は迷っておられ、まだ成仏していないことになります。

今生を終えられた方の功徳が不足しているために迷っていてまだ成仏をしていないので、私たちの方から功徳やお経を亡くなった方に差し向けて追加して、先立っていかれた方を成仏させようとするのが「追善供養」です。

勝手な思い込みで「追善供養」としてお仏事を営んではなりません。

浄土真宗のお仏事は追善供養ではなく「仏徳讃嘆」です。

限りない光と限りないいのち

生きている間から私たちは限りない光と限りないいのちの中の人生を歩んでいると浄土真宗では説きます。

浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来です。阿弥陀さまは限りない光と限りないいのちの仏さまです。

インドのサンスクリット語、アミターバ(限りない光)とアミターユス(限りないいのち)が一つになって阿弥陀さまのお名前となります。これは単なる名前なのではなく、限りないひかりといのちのはたらきそのものです。限りがないはたらきを私たちに分別でお呼びできないので阿弥陀さまと申し上げるのです。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

と和語をもって阿弥陀さまのお徳を讃えられた親鸞聖人の御歌にありますように、阿弥陀さまははたらきそのものです。

阿弥陀さまがおられて私たちを救って下さるのではなくて、生きとし生けるものをお念仏申す身に育て上げて、救い取って捨てないはたらきを阿弥陀さまとお呼びしています。

お浄土へ生まれ、仏と成る

阿弥陀如来の、限りない光と限りないいのちの中の人生を私たちは歩んでいます。

ですので、私たちがいつどのようにこの世のご縁を終えようとも、南無阿弥陀仏を称えいただく私たちは迷いません。今生を終えて行くままに、阿弥陀さまの願いにより、お浄土という無量の光明の世界へ生まれるのです。

お浄土へ生まれたならば、そこは既に覚りの世界ですから、ただちに仏さまと成らせていただくのです。

お浄土へ生まれ仏と成ったものは、あらゆる限定を超えてこの世界へ還り来て、のこされたあらゆる生きとし生けるものを救い続ける限りない利他行を行わせていただくのです。それが私のいのちの本当のすがたです。

「往く」だけではなく「還って来る」

元浄土真宗教学研究所所長の大峯顯先生は仰います。

キリスト教では天国へ「往く(行く)」と言う。浄土真宗以前のお浄土の教えでも「往く」と言う。ただ往くだけ。

法然聖人のお念仏のみ教えを受け継がれた親鸞聖人によってはじめて、阿弥陀さまの本意が開かれて、「還って来る」といういのちの相が明らかになったのです。

浄土真宗は往くだけではなくて還って来るのです。限りなき光と限りなきいのちのはたらきの中に今生を終えさせていただき、お浄土へ生まれ仏と成り、この世界へ今度は仏として還り来て、あらゆるいのちを救い続けていくのです。

「行って来ます」に表れるいのちのすがた

「行って来ます」という日常の挨拶があります。

家を出る時、お家の方へ「行って来ます」と言って家を出ます。大切なところへ、大事な方へ「行って『また再び帰って』来ますね!」という宣言が「行って来ます」の挨拶です。「帰って来る」語が省略されているのです。

「行く」だけで家出をして帰って来ないのならば、「行って来ます」と口にする必要はありません。また「行く」だけではお別れになり不自然です。帰って来るからこそ「行って来ます」と告げることができるのです。

いのちのすがたも「往く」「還る」があって本当の相です。いのちは循環しているのです。

阿弥陀如来の大きな願いの中、今生を終えてお浄土にただちに生まれ、そしてお浄土にて即座に仏さまと成らせていただく。仏と成ったのちにはこの世に再び還り来てあらゆるいのちを救い続ける。このいのちの大循環こそ、本当のいのちの相です。

私たちは浄土真宗を聞かなかったならば、本来は大循環の円環のいのちであるのに、そのごく一部だけを切り取って考えてしまうのです。一部だけを切り取るので、限定的ないのちと思い込むのです。始まりと終わりがある人生だと思うのです。

生まれて生きて死んでおしまい、そのような限定された直線的ないのちではありません。無限のご縁がかたちとなって私たちは生まれ、私たちのいのちと成って下さっています。

限りないご縁が私たちのいのちですから、死んでおしまい、そこから先は何もない、と無になっていくいのちのはずがありません。

限りない光と限りないいのちに育まれているいのちであり、大きな大循環のいのちこそ私のすがただったのです。

お仏事は「仏徳讃嘆」

先立っていかれた方のいのちも阿弥陀如来の大きな願いの中のいのちです。今生を終えていかれ、迷っておられません。

今生で目が閉じるその時がお浄土に生まれて仏さまと成る時です。よって追善供養をする必要がありません。

私たちの方から、お経やお念仏並びに功徳を差し向けて、亡き方を成仏させるのがお仏事ではありません。

お仏事は追善供養ではなく、仏徳讃嘆です。

仏さまのお徳をお敬いしてお讃えするのです。供養も讃嘆供養の意味で受け取らせていただきます。

阿弥陀さまの方から私たちを目当てとしてお救いくださるそのはたらきを敬ってお讃えすることを言います。

私たちがご縁としていただくお花やお香のお供え、お蝋燭に火を灯すこと、お経や合掌礼拝、お念仏を申すことも含めたお仏事のすべては、追善供養ではなく仏徳讃嘆なのです。

合掌

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