私たちは苦しいことや悲しいことよりも、嬉しいこと・めでたいことが好きです。
江戸末期、博多の聖福寺の仙厓(せんがい)和尚が殿さまから「正月なのでめでたいことを書け」と言われて金屏風に書いた言葉が「祖死父死子死孫死」だと言われています。めでたいことと殿さまは望んだのに、死という言葉が含まれているではありませんか。おじいさんが死んで、お父さんが死んで、お子さんが死んで、孫が死ぬ。殿さまは面白くなく、機嫌が悪くなり「ならば今度は逆にめでたくないことを書け!」と命じると仙厓和尚は「孫死子死父死祖死」と書いたそうです。まず孫が死んで、次に子が死に、父が死ぬ。この順番がめでたくないことだったのです。
10月27日の御本山のお晨朝(じんじょう・朝のおつとめ)のご法話の中で、あるおばあさんが仰いました。「人生で辛いことは、順番通りでなかったことだ。親を見送り次は私の番だと思っていたが、娘が先に亡くなった。何と悲しく辛いことだろうか。」と言われたのです。
順番通りでも辛く悲しいことですが、それが逆になるなんてその悲しみは如何ばかりだろうか、と思いながらご法話を聞かせていただきました。
このいのちの在り方は、私の思い通りにならず、いつ今生のいのちを終えていくかも分かりません。その上に死は年齢順ではなく順番も分からないというのです。無常のいのち、何を私たちは頼りとして生きていけば良いのでしょうか。
それは本当にめでたいことに出遇うことです。本当にめでたいことは、死なないいのちに目覚めることです。死ぬのではなくお浄土に生まれて往くいのちだったと気づかせていただくことです。
いのちの本当のすがたは、今生のいのちの長い短いではありません。え?長く生きたら大往生で、幼くして死んだら可哀そう?果たしてそうでしょうか。可哀そうだと言ったり、大往生だと納得する、これは私たちの勝手な思い込みではないでしょうか。
人間の価値観で10歳と100歳だったら100歳まで生きたら幸せですか?
いや、こう言いますと寝たきりでは迷惑をかける。迷惑をかけないで健康で自分で生活ができて長生きがしたい。平均寿命をある程度越えて自分で生活が出来なくなったらポックリと死にたい。そんな声を聞きます。
何歳まで健康で生きたとて、自己中心の在り方から抜け出せないままで、多くの命の犠牲の上に生きて、エゴ丸出しのままで世俗の欲を求め続けて自分の身体が不自由になったら使い捨て。それが本当のいのちの姿と言えるでしょうか。いのちを見事に生き切るとはそういう在り方でしょうか。
たとえ10歳でも限りないいのちに出遇えたならば限りないいのちに成る。100歳まで生きても、移りゆき過ぎ去る世俗の中のものだけを求め続けたままで今生を終えたならば、虚しく人生を終えて行くのです。
本当のものに出遇わなければ、いのちが実りあるものとは成りません。真実に出遇えばいのちは真実に成るのです。
本当にめでたいことは、私たちのエゴの中にはありません。生と死を超えて、無限から私たちのところへ至りとどいている光といのちこそ、めでたきものです。それを無量光や無量寿といい、二つをあわせて「なんまんだぶ」といただきます。