寺報・コラム

お念仏以外はすべてエゴである

エゴとは何でしょう?

自己中心の考え方や価値観、自分以外のものの気持ちになれない在り方です。今回は出来事や物事の全部を、お念仏とお念仏以外に区切って、「お念仏以外はすべてエゴである」と表現しました。その区切りは、「生と死を超えて行けるかどうか」です。

言い換えますと、自己中心の在り方では生と死を超えられないのです。「生と死を超えられない」ことを迷いと言います。迷いは、この世の出来事の良し悪しを、私たちが自己中心の価値観で分別していることです。

自己中心の在り方の中に沈んでいる私たちは、迷いを迷いとも気づかず、この世での充足ばかりに執われて、死ぬ時がくれば「ああ死ぬのか」と、人生の幸不幸を自分で回想しながら自己満足で死んでいくのではないですか? もしくは突然の事故にて、びっくりしたまま急激に意識が途切れる……。

いかがでしょうか。その中で本当に頼りにできるものは何でしょう? お金? 地位、名誉、制度? それとも友人、家族、いや私自身でしょうか?

しかし、それらはどこまで求めても変わりゆく世俗のものです。生まれて死んでいくいのちの上では、幻のものでしかありません。この世のものはすべて、愛情でも物質でも移り変わっていくものであり、私の意識が消失すると消えてしまいます。

本当に頼りとなるものは、私たちのいのちを一切の打算なく、全く見返りを求めずに救うという、限りないお慈悲のはたらきではないでしょうか。


『歎異抄』の「後序」に、

よろづのこと、みなもつて そらごと たはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

とあります。あらゆる出来事・物事はすべて、そらごと・たわごとで、まことが無く、お念仏のみが真実だというのです。

お念仏とは何か?

限りがない光と限りがないいのちが、無条件にそのままに、無限の慈悲として私のいのちと融けあい、「あなたのいのちを無限のものとさせる」「あなたをエゴに限定させたいのちを歩ませない」「死んでおしまいの限りある人生にはさせない」「あらゆる生きとし生けるものを救い導く存在と成らせる」と動き続けていることを、お念仏と言います。

お念仏は、仏さまを私が念じるのではなく、私を仏さまがあたたかく念じて下さっている動きです。

なんまんだぶつ、なまんだぶとお称えするお念仏のところに、狭いエゴとは全く違った、私たちの生と死を超えさせる大きなお慈悲が届いているのです。
仏さまの大きなお慈悲を受けて、「ありがたい」「勿体ない」と私の小賢しい頭が下がっていく「なんまんだぶつ」のお念仏こそ真実です。

合掌
顕証寺住職

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