寺報・コラム

現代版? 仏さまを前に、手が合わさる?

先日、地元の小学校の六年生が歴史の勉強で私のお預かりのお寺を訪ねてくれました。一学年全員、本堂に入ってもらいました。

お寺の歴史をお話する前に、「ここは本堂です。前に仏さまがおられますので、まず仏さまにご一緒に手を合わせましょう。」と子どもたちに呼びかけました。すると子どもたちの中から「新興宗教や!」という声が上がりました。

子どもたちは素直だから、呼びかければ一緒に手を合わせてくれると思っていた私の考えは一瞬で崩れました。「今までの子どもたちは、言えば従ってくれていた」という私の過去から来る固定観念も砕かれました。

子どもたちも今の時代を生きているのだと思わされました。「今の時代」というのも私の固定観念かも知れず、一言で表現することはできないのでしょうが、今の時代は「宗教」は怖くて関わってはならないものと各家庭で親の指導がなされていて、そして「いのち」というものを深く考えるご縁の少ない時代なのだと私は感じています。

「新興宗教や!」と言った子どもが何を感じているのかを分析すると、特定の宗教を批判したわけではなくて、仏さまというよく分からない得体の知れないものに手を合わせる行為を強制したことに対する違和感の叫びだったように思います。

「新興宗教ではありませんよ」と伝えつつ、いのちの意味を私は話さなければならないと思いました。

私たちが手を合わせる時

私たちが手を合わせる時はどんな時でしょうか。

お食事の時に「いただきます」「ごちそうさまでした」と多くの方は手を合わされることでしょう。インド人は挨拶の時にも手を合わせると聞きます。「ありがとう」と言う時、「ごめんなさい」と謝る時にも手が合わさることもあります。
日常の合掌
これらは私の行為として、自分一人ではどうにもならない出来事に直面した時に手が合わさるのだと思います。いのちの動きを前にした時に手が合わさるのです。

食事の時であれば、前に食べ物が並びます。いえ、食べ物という食べ物はなく、いのちが並んで下さいます。牛や豚や魚や野菜、動植物のいのちが私の前に並ぶのです。

その動植物は、いのちのままに生きていました。この私に食べられようと思って生まれて来たいのちはありません。この私を生き長らえさせようと、この私のためにいのちを投げ出してくださったのです。

自分の為ではなく、自分以外の者のためにいのちをなげうって下さる方を仏さまといいます。

お食事の時に、見ず知らずの私のためにいのちをなげうって下さった、何と勿体無いことか、申し訳ないことかと手が合わさるのです。

私自身は親しい人のために時間を割くことはあっても、いのちを投げ出せるかと言われれば相当の覚悟がいるでしょう。それが知らない人のためであれば、私の大切ないのちを犠牲にできるはずがありません。食卓に並んでくださるいのちは、知らない私を生かすための仏さまでした。

「ありがとう」と「ごめんなさい」も同じです。

本当に心からのありがとうを伝える時、既にしてくださった事柄に私は平伏する気持ちで感謝を表現するしかありません。ごめんなさいと心の底から謝ることも、自分は全く至らなかった、微塵も及ばない存在だった、誠に申し訳ないという気持ちを頭を下げて表現するしかありません。

本当に心の奥底から感謝する時、もしくは謝る時、代わりに何かを私がすれば埋まるというような事柄ではないのです。他の事では代わりがきかないから、ありがとうやごめんなさいと表現するしかないのです。

「表現するしかない」それが手が合わさるということです。

仏さまを前に、手が合わさる

お寺で合掌
本堂で(あるいはお仏壇で)仏さまを前にした時に私の手が合わさるのは、仏さまが大きないのちのはたらきであるからです。この私のために、仏さまご自身を投げ出して下さったのです。

仏さまが仏さまであるのは、この私を救い続けるためです。この私の救いは仏さまのすべてをかけて、仏さまの方で成就して下さったのです。

その成就を前にして、私は手が合わさってお念仏を申し上げるしかできないのです。

お寺で、いのちのことを尋ねる

六年生の子どもたちに伝えました。お寺は素直にいのちのことを尋ねて聞いていける場所だと。

この私のいのちは、生まれたから死んでいくいのちです。それもいつ死ぬか分からないいのちです。おじいちゃん、おばあちゃんになってから死ぬとは限りません。大人になれずに子どものうちにも死ぬいのちです。明日が分からず、今日突然に交通事故や病気で死ぬかも知れないのです。

お寺は場所として仏さまのおられる空間です。仏さまの前だからこそ、いつ死ぬか分からないいのちだと表明もできますし、頷いていけるのです。頷いていけるという作用が仏前にはあるのです。

お寺ではない公衆の面前、人の行きかう大きな駅などで「生まれたいのち、必ず死ぬのだ」「私たちはいつ死ぬか分からないいのちなのだ」と語りかければ捕まるのではないでしょうか。社会の不安を煽ることを言ってはならないからです。

つまり、本当のいのちの姿を素直に語ることは社会一般では難しいのです。

六年生の子どもたちに「僕は(私は)いつ死ぬか分からないいのちなの?死んだらどうなるの?」とお家の方に尋ねてみてほしいと言いました。

おそらくお家の方は「いつ死ぬとか、そんなことは考えなくていい」と仰るのではないでしょうか。代わりに「元気に学校に行って、しっかり勉強して、中学や高校へと進み、クラブ活動や将来の夢や目標に向かって努力して頑張ってほしい」とお答えになるのではないでしょうか。

死を考えない生活、いのちを問題にしない生き方、死んだらどうなるのかという私のいのちの行き先を問わない在り方、それで本当に生きるということが言えるのでしょうか。心からお蔭さまと言うことができるのでしょうか。

健康で長生きができたからお蔭さまと仰る方もおられるでしょう。健康で長生き、結構なことだと思います。しかし健康で長生きという尺度は、他のいのちとの比較になれば、自分中心のエゴが満足するだけの在り方です。

今生の長さがどれだけであっても、お蔭さまだといのちを頂ければ有り難く思います。

限りなきいのちにつながっていく

子どもたちにも、いのちの問題を解決した上で、未来への希望をもって人生を歩んで行ってほしいです。

子どもたちだけでなく私たちも、お浄土に生まれ仏さまと成らせていただく未来をもち、仏と成った後には、あらゆるいのちを仏さまとして自由自在に導き続けることのできる限りない利他行を行わせていただくのです。

そのような無量寿という限りなきいのちに繋がっていくご縁を前にした時に、私の手が合わさるのです。

仏さまを前にして手が合わさる、いのちを前にして手が合わさるのです。

心からのありがとうやごめんなさいの気持ちが身体表現となることがお仏事の現れ方です。私の言葉や分別を超えて、そうとしか表現できないかたちを通して、私たちはいのちに出遇っているのではないでしょうか。

合掌

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