寺報・コラム

死んでも 死にきれない 問題が 人間にはある

これは遺産相続の話ではありません。「死んだらどうなるのか」といういのちそのものの問題です。

いのちの意味は人間と人間とのあいだに明らかになるのではなく、私自身と宇宙とのストレートな関係によって明らかになります。

人間は社会の中にありながら、同時に宇宙の中にもあります。人間が社会的存在なだけであれば、地位や名誉や財産、加えて健康で長生きという他者との比較を気にしていればよいのです。

ここで宇宙というのは、自然科学的宇宙ではありません。物理学者や天文学者がいうところの宇宙ではなく、過去・未来・現在を包むもの、つまり時間と空間を包む全体のことです。

私たちは物事を考える時、時間と空間の中で考えています。

例えば浄土真宗は「インドで発生した大乗仏教の伝統を受け、中国を通り日本へきて、今日まで約二千年が経過し、そして日本という社会の中で大勢の信者を獲得している一つの社会現象」と見ることもできます。そのような場合、浄土真宗は時間と空間の中にある現象です。

しかしそれだけでは浄土真宗の本質は捉え切れません。

浄土真宗は、この人間社会や地球の上に生きているあいだの生活をどうするかという教えではなく、死んだらどうなるのかといういのちの問題を解決する事柄です。

それは時間空間の中におさまらない自己の問題の解決です。

自分は何のために生まれて来たのか、死んだらどうなるのか、この自分とはいったい何者か。

こうした問題は自分が生まれてから発生したのではなく、生まれる前から抱えている問題です。自分が死んでしまえば終わる問題ではありません。死んでもそのような自己の問題は残るのです。

死んだら自分がなくなって自分の問題もなくなる、とはなりません。死ぬくらいではこの問題は解決しないのです。

身体の病気ならどんなに苦しい病気でも死で終わります。どんなにつらい癌でも死ねば静かになります。しかしいのちの問題は終わらない。

いのちの問題は、人間社会や歴史のあいだで語られることをはみ出すのです。

社会的存在や歴史的存在というのは、私の着ている着物です。着物は私ではありません。人間世界のあらゆる相違や比較は私の着物であり、宇宙に出てしまえば意味をなしません。

宇宙の中の私に出遇うことこそ本当のいのちに出遇うということです。

宇宙に抱かれて宇宙に生まれて無限の光となる、これが私の問題の解決です。

いのちの問題の解決ができなければ死んでも問題は残ります。

死んでも死にきれない問題が私にはあったのです。

合掌
願証寺住職

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