仏さまの教えを聞かないうちは、社会的存在としての自分のことで頭がいっぱいになっています。自分がいるところが社会を包み込んだ無限の宇宙の中なのだと、どうしても分からないのです。
仏さまの教えを聞いてはじめて、「ああそうだった。私には死ぬという一大事があった」と分からせてもらうのです。
死は私たちの大問題です。私たちにとって、これから確実なことと言えば、死ぬことだけです。他のことも起こるかも知れませんが、起こらないかも知れません。
病気にはならないかも知れませんし、高齢にはならないかも知れません。大地震も起こらないかも知れません。これから嫁ぐ方もおられるかも知れませんし、そうでない方もおられます。恋愛も成就するかも知れないし、そうで無いかも知れません。あるいは、とてもお金持ちになる方もおられるでしょうし、すべてお金を失くす方もいらっしゃるでしょう。
この社会での出来事は、起こるかも知れないし、起こらないかも知れないのです。
しかし、死と言う場合、「ひょっとしたら死なないかも知れない」とはなりません。死は万人に対して、生の必然として絶対に起こります。死ぬことは、私たちにとって起こるたった一つの確実な事実です。
死が私たちの「一大事」(言い換えるならば「大問題」)であるのは、私たちは身体的に死んだとしても、この問題は永遠に残るからです。
死の問題は死んでもなくなりません。病気や貧乏の苦しみであれば、死んだらなくなります。しかし、死はそうではありません。死の不安を解決できないと、私たちは本当は死んでいけないのです。
私たちのこの一番大きな問題を解決するのが浄土真宗の目的です。
この一大事に本当に安心できたならば、人生の他の問題に対処する心掛けが違ってくるのです。他のすべてのことに対して余裕が出てきます。いつ今生のご縁を終えようとも安心だから、この社会を安心して一日一日を生きることができるのです。
安心は私たちの心の中にはありません。仏さま(阿弥陀如来)の中にあります。
私たちの中には頼りとなって揺るがないものは一つもありません。日常生活の中にも安心は存在しません。
私たちを包み込み照らしてくれている、無限の宇宙からの「あなたこそ救いの目当てだ」という仏の光によって、私たちは無限のご縁のいのちを安心して生きるのです。
合掌
顕証寺住職