お供えの掛け紙の水引は、何色になさいますか?
私は、お寺の法要にお参りする場合、お店でお菓子を詰め合わせてもらい、水引の色を紅白でお願いしています。
「御仏前」や「御供」と印字してもらうこともありますが、その言葉を聞いたお店の方から、
と、ほとんど毎回のように聞き返されます。「御仏前」と聞くと、黄白や黒白の水引を思い浮かべる方が多いのでしょう。

また、お店では「熨斗紙を付けますか」と尋ねられることがありますが、正確には、御仏前には熨斗紙ではなく、右上に飾りのない掛け紙を用います。
熨斗紙の右上にある飾りは、もともと生ものである熨斗鮑を表したものです。神事や人事の祝い事に、お酒と肴を贈った名残とされています。そのため、仏さまへのお供えには、できれば熨斗の付いていない掛け紙を用います。
水引の色には地域による違いがあり、どなたかの年忌法要であれば、黄白や黒白を用いる場合もあります。
しかし、お寺の法要、なかでも報恩講であるならば、私は紅白の水引でお供えしたいと思っています。
報恩講は慶事なのか
慶事か弔事かによって、水引の色は使い分けられます。では、報恩講はどちらに当たるのでしょうか。
報恩講は、私たちがお念仏一つで救われていく浄土真宗のみ教えをお示しくださった、親鸞聖人のご祥月命日の法要です。
阿弥陀さまのお救いに遇わせていただいた慶びをもって、親鸞聖人のお徳をお讃えする法要ですから、報恩講は慶事に当たります。
そして、報恩講だけでなく、お仏事やご法要そのものを慶事として受け止めることができるところに、浄土真宗の大切な意味があります。
追善供養ではなく、仏徳讃嘆
浄土真宗では、どの法要やお仏事も、報恩講の意味を持っていると表現して差し支えありません。お葬儀であっても、基本的な意味は報恩講です。
なぜならば、亡き方のために追善供養をしているのではなく、仏さまのお徳を讃える仏徳讃嘆をしているからです。
追善供養とは、亡き方が成仏するための善や功徳が不足していると考え、遺された者が善根功徳を付け加えていくことをいいます。
しかし、浄土真宗では、私たちがお浄土に生まれて仏と成らせていただく功徳は、阿弥陀さまからすでに届けられているといただきます。
生きているときから私たちは、阿弥陀如来の限りない光といのちに包まれています。私たちを救い取ってくださる功徳は、すでにこの私に満たされています。だからこそ、亡き方のために追善供養を行う必要はありません。
悲しみの中で、亡き方をどう受け止めるか
もちろん、涙を流してはいけないということではありません。
お通夜やお葬儀、中陰の法要など、悲しみの中で勤められる法要があります。親しい方、愛おしい方と今生で別れることほど、つらいものはありません。
そのとき、亡き方のいのちをどのように受け止めていくのかが大切です。
死んですべてが終わった方と受け取るのでしょうか。暗い冥土へ行かれたとして、冥福を祈るのでしょうか。それとも、お浄土に生まれて仏と成り、いつでもどこでも私たちを導いてくださる方になられたと仰ぐのでしょうか。
そこには大きな違いがあります。
浄土真宗では、亡き方は阿弥陀さまのお救いによってお浄土に生まれ、仏と成られたといただきます。亡き方のご生涯そのものが、私たちを仏法へと導く仏さまのはたらきとなるのです。
限りない光といのち
阿弥陀さまとは、限りない光と限りないいのちの仏さまです。
限りがないということは、時間や場所に隔てられず、あらゆる人に届くということです。あらゆる場所と時間を超えて私たちを照らし、救う光といのちが阿弥陀如来です。
私たちは、地位や名誉、お金や財産、健康や長寿、人間関係など、いつかは失われるものを頼りとして生きています。しかも、いつこのいのちが終わるのか分かりません。
夜中に、真っ暗な廊下を歩いてトイレへ行くとき、行く先が見えなければ不安になります。子どもであれば、なおさらでしょう。
しかし、進む道を明るく照らしてくれる確かな光があれば、安心して歩くことができます。
それと同じように、阿弥陀さまの限りない光は、危うい私たちを隔てなく包み、揺るぎない安心となってくださいます。
その限りない救いのはたらきが、有限の私たちにも分かる姿となって現れたものが、南無阿弥陀仏です。
お葬儀も報恩講となる
亡き方は、お浄土に生まれて仏と成られ、阿弥陀さまと同じように、時間や場所の隔てを超えて私たちを導いてくださいます。
亡き方の姿を、私たちの目で見ることはできません。生前のように触れることも、言葉を交わすこともできません。悲しく、寂しく、受け止めがたい事実です。
しかし、亡き方が今後も仏さまとして私たちの導きとなってくださることを、慶びとして受け止めることができます。
私たちを救い取って捨てない南無阿弥陀仏があるからこそ、悲しみの中で勤められるお通夜やお葬儀も、阿弥陀さまのお徳を讃える報恩講となるのです。
人生は花道
梯實圓和上は、生前のご法話で「人生は花道である」とお話しになりました。
花道とは、能や歌舞伎で役者が通る脇道のことです。その先には、役者が大きく活躍する表舞台があります。
私たちの人生の先にも、お浄土という大きな舞台があります。お浄土に生まれて仏と成り、あらゆる生きとし生けるものを、際限なく救い続けることのできる大舞台が、阿弥陀如来によって用意されています。
私たちはこの世で、移り変わり、頼りにならないものに執着し、迷いを深めながら生きています。
その今生を照らすものは、この世界の中にあるものではありません。お浄土から届く阿弥陀如来の光によって、私たちの人生は照らされます。
そして、本当のいのちは、お浄土に生まれてから花開くのだと知らされます。お浄土のいのちは尊く、今生もまた、お浄土へ生まれていく花道として尊い。そのような世界が、南無阿弥陀仏の世界です。
梯和上は、ご法話の中で、次のような意味のお言葉も残されています。
私が息を引き取ったとき、かわいそうだと思わないでください。お浄土にお生まれになって、おめでとうございますと言ってください。
亡くなった方を「かわいそうな方」と受け取れば、その方の人生まで、かわいそうな人生であったことになります。
しかし、「お浄土に生まれられて、おめでとうございます」と受け止めることができたならば、深い悲しみの中にあっても、その方の人生は、仏さまの慶びに包まれたいのちとなります。
私も、「このたびのご往生、おめでとうございます」と言われたいものです。
仏縁を慶ぶ紅白の水引
浄土真宗のお仏事やご法要は、すべて仏さまのお徳を讃える仏徳讃嘆です。追善供養ではありません。
どのような法要であっても、南無阿弥陀仏のお救いを慶び、その本当の意味をお示しくださった親鸞聖人のお徳を讃える、報恩講の意味合いがあります。
御仏前や御供の水引については、受け取る方の心情や地域の習慣も考えなければ、誤解を生むことがあります。
しかし、紅白の水引を用いることには、悲しみを軽く扱うのではなく、悲しみの中にもいただいた仏縁を慶び、仏さまのお徳を讃えるという意味があるのです。
水引の色について
水引の色には地域による違いがあり、お葬儀、中陰、年忌法要においても、黄白と黒白の厳密な区別がなされているとは限りません。
白黒の水引ではなく黄白が用いられる理由については、白黒の水引が皇室で用いられる紅の水引と見間違えられないようにしたため、という説もあります。
また、黒を喪の色とする習慣は、明治期に外国から入ったものともいわれています。
全国的に見れば、特に大切な慶事には金銀、弔事には銀、そのほかのお悔やみ事以外には紅白を用いるのが、一つの考え方でしょう。
御本山本願寺では、導師が拝読する法要の趣旨や信仰告白を記した「表白」を綴じる水引について、お悔やみのお勤めには銀または白、結婚式には金銀、そのほかには紅白を用いており、白黒の水引は用いられていません。